その他私のホビー

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2021年4月  中村 淳 (第24代・昭和56年卒)  [記事番号:c0144]
雑感:怖いもの見たさ(森田童子やらいろいろ)  (資料:無し )

小野澤さんが投稿で森田童子のことを書いていたので,自分も森田童子と彼女から連想するもろもろのことを書いてみました.

森田童子のことは高校生の頃から知っていた.プロのミュージシャンには異例のか細い声が特徴だった.本当に声量がなかったのか,あるけれど抑えていたのかは知らない.とにかく,曲や歌詞の好き嫌いを感じる以前に,声量が小さいというのが気に入らなかった.この「声量が小さい」というのは,大きな声で歌わないという意味ではなく,ほとんどの歌手が出す普通のボリュームでさえ歌わないという意味だ.声は声帯が振動する音と吐く息の音(風の音)が混ざっているが,声が小さくなるほど,前者が弱く,後者が強いバランスになる.風の音はいわゆる雑音だから,声が小さいほど雑音ぽくなる.雑音も含めて声という楽器の音だと認めるという度量が自分にはなかった.そういうわけで,少なくとも学生時代には,自分は森田童子の曲を積極的に聴いたことはなかった.

それが,積極的とはいわないまでも,意識的に聴くようになったのは,1993年に放映されたテレビ ドラマ「高校教師」を見てからだ.その破滅的なストーリーと「ぼくたちの失敗」というテーマ曲や歌詞がよく合っていて,とても印象に残った.

「悲劇的,絶望的なものをつい見たくなる」心理は誰にでもあるといわれるが,自分は特にその傾向が強いと思う.「高校教師」のような雰囲気のドラマや映画,悲劇や人間の負の面をテーマにした作品などに対して,人前ではそしらぬ顔でいるが,自分ひとりのとき,興味を持って見たり調べたりする.「砂の器」とか,「海と毒薬」とか,ホロコーストのドキュメンタリーとか.そして,人間はどうしてこんな不合理な状況に陥ったり,不合理な心理になるのだろうと考える.何年か前,その「高校教師」が衛星放送で再放送されたので録画して見ているうちに,学生時代の印象にもかかわらず,森田童子をYouTubeなどでときどき好んで聴くようになった.

その森田童子の曲に「サナトリウム」というのがある.ピアノとギターのバッキングにノスタルジックなヴァイオリンがリードをとる短調のワルツだ.詩の内容は,結核を患って療養所(サナトリウム)に入所している青年が,ときどき見舞いに来る恋人と慰めの時を過ごし,恋人も楽しそうにしながらも別れの時刻が迫るのを悲しむ.ひとりになった青年は「もうすぐ僕の左の肺の中に真赤な花が咲く」とつぶやく,というショッキングなもの.今ではこの曲をよく聴く.それは自分が悲劇的なものに惹かれるからという理由以外に,個人的な経験のせいもある.

今ではだいぶ一般の認識が変ってきたが,自分が生まれた頃以前には,結核は死の病と言われていた.自分は高校時代まで東村山に住んでいた.東村山や清瀬には結核の療養所が多くあったし,今も総合病院の一部としていくつか残っている.東村山のサナトリウムは,自分が小学生の頃にカエルをよく捕まえた田んぼと,中学生の頃によく行った八国山の間にあった(八国山の尾根道の先にあった赤土むき出しのハゲ山はモトクロス練習場になっていて,モトクロッサーの疾走やジャンプを見るのが楽しみだった).

それで,サナトリウムの敷地内にある坂道を自転車で通り抜けて,田んぼと尾根道の間を行き来した.その坂道とサナトリウムの施設が最接近するのは,ある病棟の脇を通り過ぎるときだ.病棟の出入り口はいつも開け放たれていて,外から中の廊下が見通せた.ときどき看護婦や患者がそこを歩いているのが見えたりした.自分は結核についての知識がまったくなかったが,「感染」という言葉の恐ろしさは感じていた.それで,その場所ではあまり息をしないようにして,できるだけ素早く通り過ぎるようにしていた.下りのときはスピードが出るので問題ない.しかし上りのときはけっこうな勾配(たぶん8%程度はあった)を全力で駆け上るのだ.今考えると,それならサナトリウムの敷地内を突っ切る道でなく,回り道をすればよいのにと思うが,やはり,怖いもの見たさの心理があったのだ.このサナトリウムは「となりのトトロ」の「お母さん」が療養している施設のモデルだと言われている.

昭和20年代に結核でこのサナトリウムに4年間入所し,快復して社会復帰した人の書いた手記を最近読んだ.結核といっても軽度であれば治癒することもあり,また,罹患したことを知らないうちに自然治癒した人も多かったようだが,サナトリウムに入所した人の多くはそこが自分の終の住処になるという不安を拭いきれなかったという.実際,この手記に登場する患者のうち11人が亡くなっている.別の記録によると,このサナトリウムの昭和20年の患者の死亡率は42%だったという.この手記は,個性的な患者仲間たちの無念の死への鎮魂と,そんな絶望的な状況からなんとかして生還したいと願う筆者の気持ちとがリアリティーをもって描かれている.

そんなサナトリウムを舞台にした,いわゆる「サナトリウム文学」の代表作が堀辰雄の「風立ちぬ」だ.これはほぼ堀辰雄の私小説といってもよい.ある年の夏,小説家の「私」は軽井沢で出会った女性と恋に落ちた.彼女が結核を患っていることを承知で,翌年「私」は彼女と婚約した.4月,病状の悪化した彼女は長野県富士見のサナトリウムに入所することになり,「私」も彼女に同行する.しばらくの間,自身の仕事を放棄して,彼女の隣室に寄宿して付き添うことになった.付き添いながら,「私」と彼女は2人だけの単調な繰り返しの日々を愛しんで過ごす.11月,それまで小康状態を保ってきた彼女の容態が徐々に悪化する.2人とも,一緒にいられる時間が残りわずかであることを知りながら,それを意識しないふりをする.その冬彼女は亡くなり,1年後,「私」は雪の積もる山間の別荘地の小屋を借り,彼女を思いながら冬を越す.

「風立ちぬ」は2013年に公開されたジブリのアニメーション映画のタイトルにもなっている.ただしジブリの「風立ちぬ」は一部の設定を堀辰雄の「風立ちぬ」のそれと同じくしながら,ストーリーはまったくちがうものになっている.それは,少年時代から飛行機の設計を夢見て成長した主人公,堀越二郎が,結核を患った妻,菜穂子と過ごしたほんの短い時間の後,最終的に日本軍の戦闘機,零戦を完成させるも,結局敗戦を迎えるという半生を描いたものだ.この映画,自分はあまり共感できなかった.

話は変わるが,アインシュタインは自身が発見した質量とエネルギーの等価式 E = mc2 にしたがう核分裂の急速な連鎖反応による巨大なエネルギーの生成(原子爆弾)の研究の支援をルーズベルトに要望した.これはナチス ドイツが原子爆弾を開発するのではないかという懸念に対処するためだった.それをきっかけに,アメリカはマンハッタン計画により原爆を完成させた.

しかしドイツは早々に降伏し,ルーズベルトの後任のトルーマンは原爆を日本に投下するという決断を下した.このきっかけとなった要望書を提出したことをアインシュタインはその後ずっと後悔した.マンハッタン計画で原爆開発を主導したオッペンハイマーも,後に自分の行為を後悔した.科学者や技術者が兵器を作るとき,大抵このような葛藤があるはずだと思う.もっとも,自分が開発した水爆を生涯擁護したテラーのような例外もあるが.これはおそらく実戦で使われず,人的被害が第5福竜丸の程度であったことと,原爆や水爆を管理する国家が愚かな判断をしないという彼の楽観主義によるものだろう.

資源や技術の乏しさのために,かつての日本の戦闘機は性能が劣っていたが,堀越二郎の作った零戦は攻撃性能が大きく向上した.しかし軽量化のため防御性能を大きく省いたために,軽い攻撃を受けてもかんたんに炎上墜落し,多くの飛行兵の命を失わせた.戦況のせいもあり,結局零戦は特攻の装置と化した.しかし,ジブリの「風立ちぬ」では,堀越二郎はアインシュタインやオッペンハイマーのような後悔や反省をしていない.この映画の文脈では,堀越二郎は「高性能な飛行機を作る」プロジェクトが不調に終わったという程度の認識しかないように見える.それに,菜穂子を愛してはいたのだろうが,重篤な病にある妻に心痛める様子が見受けられない.妻の死後,夢に出てくる菜穂子に対し,うんうんとうなずくだけの態度.要するに,さっぱりしすぎなのである.葛藤する心やウェットな情が感じられない.

こうした自分の違和感は,堀越二郎にではなく宮崎駿に対して感じる.宮崎駿は,高性能な飛行機を作ることと,それが戦争の道具になることを切り離して考えようとしたのだろうが,一方でそうした不調和をあえてあらわにしてもいる.なおWikipediaによれば,プロデューサーの鈴木敏夫が,当初そのつもりがなかった宮崎駿に「戦闘機や戦艦を好む一方で戦争反対を主張するのは矛盾だ.その矛盾に対する答えを出すべきだ」と言って映画化を勧めたのだという.鈴木のこの主張は自分には詭弁に思える.いずれにせよ,彼らはこの作品で何を表現したかったのか,よく分からない.これじゃまるで,思いつくままに文章を書き散らしているこの投稿と同じじゃないか.

……という落ちに行きついたので,もう終わりにしよう.でも最後にもう少し.核兵器といえば,大学時代,物理学科の小川岩雄先生が一般教育科目で「核問題概論」という授業をやっていて,自分も受けた.小川先生こそ,物理学者は核兵器に対する責任がある,と強く主張していた.名字でピンとくるかもしれないが,湯川秀樹の甥だ.実際,風貌もよく似ていた.核物理学の家系だったのかもしれない.その小川先生も2006年に亡くなった.

訃報つながりでいえば,やはり自分が音楽の授業を受けていた皆川達夫先生も,昨年3月に亡くなった.自分は中学校時代からNHKの「バロック音楽のたのしみ」を聞いていたから,その解説者に立教で教わることになって本当に驚いた.結構アクの強い先生だったが,毎回の授業は楽しかった.自分が卒業してからも,NHKの「音楽の泉」で亡くなる3週間前まで解説していた.
両先生に,合掌.

富士見高原療養所(出典:旧富士見高原療養所資料館)

コメント

2021年5月 上島 信行 (第14代・昭和46年卒)   [コメント番号:m0308]
中村さんが東村山に住んでいたとは知りませんでした。私は多分、中村さんが中学校に入るころに都内から所沢に移ってきたので、今回の投稿に登場する八国山や宮崎駿さんとはその後の関わり合いとなります。最近も八国山など狭山丘陵東端を歩いてきました。

宮崎さんの「風立ちぬ」ですが、この映画には出てきませんが堀辰雄の富士見をヒントにしていて、狭山丘陵は出てきませんがトトロともつながったものであることは確かです。宮崎さんはトトロ制作よりだいぶ前から狭山丘陵の東端のさらに2kmほど東に住んでいてイメージを膨らませたようです。私の住んでいる駅でいうと秋津、新秋津の近くです。私も何度か(西武線の車内とか、新秋津駅近くとか淵の森とかで)宮崎さんをお見掛けしました。淵の森というのは宮崎さんが始めた雑木林などを買い取って保存する運動の最初の場所で、所沢市と東村山市も協力して狭山丘陵周辺に広がっています。映画は興行成績も大事ですからまとめ方も制約があるのでしょう。「風の谷のナウシカ」は映画とは別に現在も展開しているようで、宮崎さんの世界観はさらに広がっているのかも。

ついでと言っては何ですが、立教の理学部、原子力に関しては武谷三男を抜きにはできないと思います。戦前、湯川秀樹、坂田昌一とともに原子核・素粒子論の共同研究をしただけでなく、久野収らとともに反ファシズムの論陣にも参加し、検挙までされた。戦後1953年から1969年まで立教の教授を務め、横須賀にあった原子力研究所を作った人である。さらに言うと、武谷の妻(ピニロピ)は亡命した帝政ロシアの軍人の娘で眼科医となり、清瀬に武谷病院を作った。ちなみにうちの次男は1980年にこの病院で生まれた。現在は清瀬の森病院となっている。

2021年5月 河野 良夫 (第9代・昭和41年卒)   [コメント番号:m0307]
ガーン、後頭部をハンマーで一撃されたようなショックなのでした。中村さんだけならともかく、あの長谷川さんまで知っていたとは! 何を隠そう「森田 童子」は、ワタシがこの世に生まれて78年10か月、初めて耳にする名前だったのです。

これはもはや、日本国民が「美空ひばり」を」知らないに匹敵する不祥事であり、非国民と言わざるをえません。あの長谷川さんですら、知っていたどころか心酔していたとは、しばし立ち上がる気力も失い茫然自失、穴があったら木に登りたい心境とはこの事でしょう。

しかしながら、転んでもただでは起きない厚顔無恥を絵にかいたようなカイチョーコーノ、長谷川さんが添付してくれた膨大な「森田 童子」の資料をこっそり「お気に入り」に登録。ひまを見ては歌声を再生し、楽しんでいる今日このごろ。なに今度会った時には、赤んぼのころから知ってらあって顔してれば、ばれやしない、かな?

2021年5月 長谷川 靖 (第26代・昭和58年卒)   [コメント番号:m0303]
まさか中村さんからこのような投稿があるとは想像もしていませんでした。

森田童子はまさに私の高校時代の象徴であり、人生の岐路でもあったのです。当時大学受験の真っ最中であった僕は文学部志望であり、太宰治を崇拝していた僕にとっては森田童子は衝撃以外の何物でもなかったことを覚えています。僕が大学に入学するまでに彼女が出した4枚のアルバムはすべてLPという今では入手困難なメディアで所有しており毎日のように聞いていたことを思い出しました。当時の実家で高校の同級生とマージャンをしながら彼女の唄を聴いて、同級生が、「今森田童子が生きていたら彼女に絶望する」といったことを思いだしました。

中村さんの投稿で久しぶりに彼女の唄声を聞きました。残念ながら当時の再生機器はすでになくレコードプレイヤーのみ現存しています。当時はDENONのDP-3000のターンテーブルにアームはFR、針はSHERE V-15 TYPE-Ⅲ、アンプもDENON、スピーカーはビクターSX-Ⅲでした。今のシステムでプレイヤーだけは継承しています。思えば高校から持っていた機器で40年は持っていることになり、そんなに長い間所有している物体はこのプレイヤーのみかもしれません。今ではプレイヤー以外はLars&Ivanの真空管アンプ&スピーカーに代わってしまい、なおかつうるさいのでヘッドフォンで聞くように言われてしまっている今日この頃です。

中村さんには「海を見たいと思った」をぜひ聞いてください。または「東京カテドラル聖マリア大聖堂ライブ」を聴いてください。想像がつかないかもしれませんが、文系男子にとって多摩川上水は聖地です。彼女は世の中がサザンやユーミンに代わっていく中でフォークソングを尾崎豊とともに唯一守ってくれたと思っています。下記ユーチューブですべて集約されています(現在はリンク切れなので割愛しました)。40年以上前にすごく感性が強い自分がいたことを思い出させます。

堀辰雄+αは次の機会にします。

以下の「投稿」ボタンをクリックし、表示される画面に必要事項をご記入の上投稿下さい。 なお、内容のチェックをさせていただきますから、公開までに多少のお時間をいただきます。

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