活動報告

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2018年7月  石橋 正 (第17代・昭和49年卒)  [記事番号:r0269]
四捨五入70歳の4人、半世紀前の感動をもう一度  (資料:無し )

期間;平成30年7月20日~22日
宿泊場所;長野県 RCTC 山荘
走行地;長野県 佐久市内、三国峠、清里周辺
参加者;昭和49年卒 長島、藤間、清水、記;石橋

昨年のことにはなってしまうが、新しい元号の発表を前に平成の時代の一コマを振り返る意味で投稿することを思いたった。

平成30年7月20日(晴)長島氏を江東区の彼の自宅でピックアップし、一路、藤間、清水、両氏との待ち合わせ場所である北千住に向かう。東京も連日の猛暑が続き、今日も暑くなりそうだ。午前10時、北千住に着き、両氏の小径車をトランクに格納。長島氏と小生の700cのクロモリロードは、既にルーフに固定されている。

この“自転車ルーフonスタイル”は、走っていて、目立つ事この上ないが仕方がない。小生が若かりし頃湘南あたりに“丘サーファー”なるものがいたが、ファッションと称して彼らは乗りもしないサーフボードを自転車のサイドに載せ走っていたのであるが、小生等は、あくまでも実際に乗る自転車を車内に格納できないがために屋根に載せているだけで、目立つことを意識しているわけではない事を強調しておきたい(しかし、このスタイルで高速道路のパーキングエリアなどに駐車してみると、遠くからもすぐに探し当てる事ができるという効用があることも指摘しておきたい)。

さてさて、表題の“四捨五入70歳の4人、半世紀前の感動をもう一度”であるが、そんな意味深な題をつけたのは、他でもない小生なのであるが、確かに、これもまた、四捨五入したら、半世紀程前、小生がRCTC在籍時代に部内行事で、“三国のヒルクライムレース”は始まったのである。詳しくは同期小宅氏の2016年“私の自転車周辺紹介欄”(記事番号b0054)“第1回三国峠ヒルクライム(1970年)の報告・結果について”をご参照されたし。

ググって見ると三国峠は、全国に9ケ所ある。RCTCが実施した“三国峠レース”の開催の場所は、長野県、群馬県、埼玉県を界とする三国峠である。我らが同時代の人間には、昭和60年(1985年)に起きた日航機123便墜落事故の群馬県の御巣鷹山の南方と言った方が分かり易いかもしれない。

今回のメインイベントの三国峠を走ったのは、21日であったが、前日は 佐久市内の龍岡城(五稜郭)や新海三神社を走り、時代背景や歴史に触れた一日であった。その日には、佐久市内のスーパーのツルヤで、今回の3日間の食糧を買い込んだ。小生以外皆の者は、自転車走行後の一杯がこよなく好きなので、酒の選別には余念が無い。藤間氏は、この自転車の後の一杯の為に、自転車の趣味を続けていると、おっしゃる。

翌21日、山荘を8時半ごろ出発。三国峠を目指すのだが、我ら、四捨五入70歳としては、途中までは、車でという事になった。これは、若い時の“日和る”という言葉は当たらず、年よりの冷や水と指摘されないようにと、そう! あくまで体にやさしく、という表現が当たっていよう。馬越峠、を抜け信濃川上を過ぎ、途中、かつてのRCTCの定宿だった白木屋旅館の前で車を止め、記念写真撮影をする。

そしてしばらくした所で路駐できる所を見つけて停車。自転車の走行開始は、9時過ぎであった。毎年Mt.Fujiヒルクライムに挑戦している自称“坂大好き人間”の長島氏はこの近年のあいだにこの三国峠の長野側からのヒルクライムを2~3回は来ているとの事であった。

小生、長野県側からの登峠(登頂=頂上を目指し登ること。それからこうじて峠を目指して登ること。小生の造語)は初めてということもあり、走っていても、埼玉側は未舗装、長野県側は舗装という位しかし思い出せない。景色の記憶がほとんどないのである。そう、ボケが始まって思い出せないわけではないと思うが、いや思いたいところである。たぶん、ヒルクライムレースの後、体力を使いはたし、早いところその日の宿の白木屋に行き、あったかい味噌汁にでもありつきたいと思いながら、安堵の中の走行だったので景色が目に入っていなかったのだろうかと思う。

「人生下り坂 最高!」とNHKの“心の旅”の中で火野正平氏はおっしゃている。投稿した読者が歳を重ね思い出の場所に自転車で行く番組である。その人の思い出の中の一コマを、投稿文を読みながら振り返る。火野さんが、その場所を自転車で訪ねるのであるが途中、坂に出くわし、70歳になる火野さんが息をきらしながら上る。時には自転車から降り、自転車を押し始める。あとから思うと裏打ちとしてその人の人生と火野さんのリアルが重なる。火野さんは、時には歩くこともあっさり断念。すれ違う自動車に、頼み込んで自転車を載せてもらい、峠まで行く事を気負いもなく実行する。下り坂が楽しいのは、きつい坂を超えた後であり、その人ゞのスタイルで人それぞれの“坂”がきつかった分、その楽しみを味わえると合点をするのは小生だけだろうか。

我ら一行は、程なくして頂上(峠上)に到着した。そこに着くと40数年前の当時の風景と記憶が蘇ってきた。すり鉢のように、両サイドを切り崩した所がゴールであり、そこが峠の頂上である。当時はなかった、トイレの施設が出来ている以外変わらない三国峠がそこにはあった。それと現在は、埼玉側の少し下った処に、柵があって埼玉側へは行かれないようになっていた。4人はそれぞれの記憶の余韻にひたった後、下山し、車の所まで帰還。

夕食は、前日に続き男所帯の手料理である。清水氏は学生時代もそうであったが、こまめに料理をつくってくれる。今日の疲れを癒し、前日に引き続き今日も“ひとつまいろう”という事になり、学生時代の話に花が咲いた。山荘の、リビングの天井からは自転車が吊るされていて我ら皆が元気に今も“ずーとサイクリスト”を続けてこられたことを感謝する気持ちにさせてくれた。しばし穏やかやかなひと時の中でおいしい食事に舌鼓をうった。翌日は、清里方面を散走。清泉寮で昼食をとった。

同期4人の旧交を再確認した初夏の日の3日間であった。

新海三神社内杉林 RCTCの定宿 白木屋旅館
三国峠 頂上にて 満足そうな二人

コメント

2019年3月 清水 昭祐 (第17代・昭和49年卒)   [コメント番号:m0290]
馬越峠へ向かう車の中で、20歳くらいの頃、松本から、扉峠、笠取峠を経て、この道をとおり大弛峠を越えて、塩山まで一緒に走ったことを思い出しました。あの頃は、信州のいろいろな峠を、みんなでふざけ合いながら越えたものです。三国峠までは、途中、長島と石橋の背中が見えなくなってしまいましたが、周りの景色を楽しみながら、走ることができました。三国峠は、48年前の峠、そのままでした。そして、自転車に乗っている時は、私も、あの頃のままです。

2019年3月 河野 良夫 (第9代・昭和41年卒)   [コメント番号:m0289]
いいなぁ、青春の思い出に浸る四捨五入70歳の4人組。少しズルしたみたいだけど、四捨五入70歳に免じて許します。私達の代はまだヒルクライムと言う言葉はなかったけれど、それでもひたすら峠を目指す走り方はありました。煙となんとかは高いところにのぼりたがると言いますが、のぼった者にしか分からない快感・達成感ですよね。

四捨五入しなくても80歳に近づいてしまった身としては、まね事も出来なくなりつつあり、うらやましい限りです。4人組皆さまの益々のご活躍、投稿を楽しみにしています。

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