活動報告

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2024年10月  石橋 正 (第17代・昭和49年卒)  [記事番号:r0474]
秋の紅葉に誘われて、思い出深い軽井沢の地と温泉めぐりの旅  (資料:無し )

10月の秋の紅葉の時期に旧友と軽井沢に行ってきた。

この3人、立教中学からの友人である。そう、立教中、立教高、立教大学と10年間、立教ずくめのの友人達である。その一人である、KY君は、立教の近くの豊島区の要町で蕎麦屋さん “安曇野” を経営している。以前、会食した時に今度はKY君の北軽の別荘で再会ということになっていた。

一日目には、軽井沢の北方にある嬬恋村の “嬬恋郷土資料館” を訪れた。見学者は誰もいなかった。がらんとした展示室には、浅間山が天命3年(1783年)の大噴火により埋没した鎌原村の発掘出土品や、噴火の資料展示をしていた。このマイナーな資料館を訪れたのも我ら3人が、立中(立教中学)時代、地歴部(地理歴史研究部)に所属していた事が、大きかったかもしれない。翌日訪れた小諸の懐古園や追分原には浅間山の火山噴出物が厚く体積していると展示資料にあった。

そこから白糸の滝を訪れた。高さ3m、幅70mの岩肌から数百条の地下水が流れ落ちる。浅間山の伏流水を源としている。そこで、記念撮影をした。中国人の団体旅行客が来ていた。その中の若いカップルに「May I photo taken?」とお願いしてみた。「いいですよ」と日本語が返ってきた。「Thank you!」と言って撮影後、早々にその場を離れた。日本人だったのだ。向こうの方も我々を中国人と思ったのだろう。色々なことがある。

軽井沢の地は3人にとっては、思い出深い地である。今から半世紀以上前、立中時代、毎年この地を夏休み前の課外授業の一環として来ていた。その思い出の “みすず山荘” を訪れた。当時は周囲は林につつまれていたが、現在は家が結構建ちならんでいた。運よく門が開いていたので、車を中に入れさせてもらった。ここで、数日間であるが、100名の友と過ごしたのだ。かまぼこ型の宿舎は今はなかった。校庭を見廻して目を閉じてみる。はるか昔の思い出が、蘇る。遥か昔の過ぎ去った時間の余韻を楽しむことができた(今回わかったことだが、当時のかまぼこ型の建物は、昭和35年に神奈川県武山の米軍野戦病院宿舎を改造移築したと、敷地内の石碑には刻まれていた)。

そこから、塩沢湖に行ってみた。当時、オリエンテーリングをやりながら行った所である。今は、近代的な商業施設が建ち、当時の面影は片端にもなかった。

夕飯は外に出かけて、小料理屋に入った。その前に立ち寄り湯をした。“地蔵川温泉” である。中性低張性鉱泉とある。沸かし湯ではあったが、昭和17年開業とある。宿泊もできるということである。年期ある建物はパンフレットから引用すると「昭和初期の時代から積み重ねてきた歴史は、今でも趣という言葉に代わり、大正ロマン漂う心地良い時間の中に残っています」とある。

風呂の後の夕食時も車の中での話の延長で、浅間山に登った事や、塩沢湖の話、当時の先生の話、話は尽きない。KY君の別荘に戻った後も、持参した、アルバムを観ながら幼少期の写真を指して、自分自身が忘れていた逸話に花が咲き、夜が、ふけるのも忘れてしまった。

翌日は仕事の関係で、KY君は軽井沢から、バスで帰還となった。KY君と別れてから、小生と、MY君は今夜の宿のチェックイン予定時刻までにはまだ時間があるので、もう一湯行くことにした。“菱平温泉 雲上の露天風呂 雲の助” である。雲上の温泉との歌い文句の通り浅間山麓に立地する。この温泉、ふもとの温泉宿(常盤館)からは、ケーブルカーで行くことになる。当日、このケーブルカーが、残念ながら故障とのことで、車での送迎となった。今年は、暖かいのか紅葉は始まったばかりである。森林の先の山並み、上空の雲、天気も良く秋の午後のゆったりとした時間が流れる。そんな景色を眺めながら湯舟に浸る展望風呂は最高であった。

その日の宿は “天狗温泉 浅間山荘” である。泉質は、単純鉄冷鉱泉である。鉄成分が含まれていて、まっ茶色である。鉄鉱質が含まれていると、確かによく体が温たまる。夕食前に一度、就寝前、朝と風呂に入った。宿を出立する前、MY君と風呂横のテラスで、缶コーヒーを飲みながら、語り合う。例年だと季節的にはもう寒くてもいいはずであるが、今年は過ごし易い。

今回は、旧友たちと思う存分に語りあえた秋の軽井沢の温泉旅であった。

旧友と 白糸の滝にて 地蔵川温泉
天狗温泉 菱平温泉

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